京へ上っていた佐助が、上田に帰れたのは、半月ぶりのことだった。足を洗い、くたびれた旅装を改めると、 彼はとりあえず主の元に向かった。
 彼の主は自室にいて、硯に向かって何かの書きものをしていた。
「ただいま、旦那」
「おお、佐助か」
 佐助の声を聞いたとたん、年若い主は筆を投げ出して振り返った。首の後ろで結わえた髪が、さらりと肩から滑り落ちる。
「よく帰った」
 主は、今この世に生まれて来たばかりのような、綺麗な笑みを浮かべた。
「うん」
佐助は頷くふりをして、そっとその純粋の微笑から目を逸らす。別段、主に対して後ろめたいところがあるわけではない。彼は誓って潔白だ。
 ただ、久方ぶりの主の笑みが、佐助にはあまりに美しく、目眩むばかりにあかるく見えたのだ。幸村の笑みは、あまりに純粋無垢だった。
それはさすけにはけっして得られぬものだ。
「京はどうだった」
「心配しなくても、ちゃんとお土産買ってきましたよ」
「そのようなことを聞いているわけではない」
「じゃあいらないの、和三盆で作った、菊のかたちのお干菓子」
「いる!」
「はは…」
 身を乗り出した幸村の、膝のあたりを見ながら、佐助はちいさく笑った。佐助の主は膝の上に手を乗せていた。 胼胝だらけの、固くて節高い、武骨な手だ。よくよく見れば、古傷が白く残っている。
 武人の、ひとごろしの手だ。
「ああ、そうそう」
 ふと、佐助はちょっと意地の悪いような笑みを浮かべた。
「京の女の子は垢抜けているねぇ。肌の匂いから違うって奴だ。男の目には嬉しい流行があってね、着物の裾をわざと、」
「破廉恥である!!!」
 怒号と一緒に幸村の拳がとんだ。佐助は殴られた。逃げも避けもしなかったので、熱い拳が見事に頬骨を殴打した。
「いたい」
 殴られた頬から得も言われぬ快さが、じわっと広がっていった。長旅でくたくたに疲れた体がしびれるような、甘い痛みだった。
「痛いよ、旦那」
 主の顔が赤く染まっているのを見詰めて、佐助は繰り返した。
「お前が悪い」
 整った美しい顔が、はじらいでますます少女めくのを眺めると、くらくらするような気持ちになった。
「酷いお人だよ」
 ひとごろしの手で殴られた頬を、おなじひとごろしの手で押さえて、睨みつける。
 そこまでしてようやく、佐助は主の顔を見ることができた。




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