猿飛佐助は、背中に浮き上がった骨の一本一本を丸くたわめて、井戸を覗き込んだ。

  水面で、真夏の日差しが光っている。井戸は深かったが、水は澄んでいて、底まで見えた。水から立ち上る冷気が、暑さにほてった頬に心地よい。 水底を眺めたまま、彼は井戸端から垂らした紐をするすると引いた。先に結わえられたものが、ゆっくり、水の浮力で揺れながら、上がってくる。さすけの手元にある側には、「だんなの たべるな さすけ」と幼い字で書いた札が下がっていた。佐助の字だ。 引き上げたものを両手で抱えて、佐助はにんまりと笑った。緑と黒の縞模様の果実は、井戸の水と同じ冷たさに冷えている。昨日の夜から漬けておいたのは正解だったと、忍びは一人頷いた。

 濡れた西瓜を持って、佐助は歩き出した。表面の水滴が、真夏の日差しに光っていた。 また別の雫は、白く乾いた大地に滑り落ちて、黒い染みになった。


「旦那ぁ、西瓜がよおく冷えたよ」




【夢の続き】




 夏だった。蝉の声が聞こえる。城の庭木で、まわりの山で、そこかしこで鳴いている。日差しと暑さが、すぐに西瓜の表面を乾かした。 佐助は、西瓜がぬくまってしまう前にと、急いで主のもとへ運んだ。
 佐助の主は、この暑さをものともせずに、庭で槍の鍛錬に励んでいた。元気なことだ。
(なんだか、蝉と変わらないね)
 自分の思いつきが面白くて佐助はうっすらと笑った。夏に強いのも、 やかましいのも似ている気がした。
「旦那」
 そのまま像にでもしたいような、筋肉の美しくついた背中に声をかける。
「おおおおお! 西瓜か!」
 汗を散らせて振り返った青年が、盆の上に赤色を見つけた途端に、歓声を上げる。 水菓子に対する男子の反応とも思えない幼さだが、佐助の気には入った。用意した甲斐がある、と言うものだ。
「うん。休憩にしない?」
「おう!」
   よく冷えた西瓜は、もちろん主のお気に召した。縁側に座って、もろ肌のままでかぶりつく。
 佐助は、主が気持ちのいい、いや、それすら通り越して気持ちの悪い程の勢いと速度で、三角に切った果実を次々平らげるのを、笑んだまま見守った。
「おいしい?」
「うむ」
 赤い果肉にかじりつこうと口を大きく開いたところで動きを止め、 それから日差しよりも眩しいような顔で爛漫に笑って、力強くうなずいた。にっこりと咲いた口の回りには、果汁で赤く濡れている。まるで子供だ。
「そ、よかった」
 佐助は目を細めて、それを見ていた。
「しっかし毎日あっついねえ。水浴びでもしたいや」
「では午後は水練だな」
「マジで?」
 突拍子もない言葉に、佐助は素っ頓狂な声を上げた。幸村が食べこぼした破片に、蟻が集まり始めていた。




 どこからか、蝉の声が聞こえてくる。こんな都会でも、蝉はたくましく生きているらしい。夢の中で聞いた蝉の声はこれだったのだろうかと、寝起きの頭で考えた。

 蝉の声が、夢の中から途切れずに聞こえていた。

「夏だったね、そういえば」
 クーラーで部屋の温度を下げて、ガラス窓で暑気を遮っても、季節は容赦も躊躇もなく、そして佐助とは関係なく、めぐっている。

「また、微妙な夢だったな……」
 さっきまで見ていた夢を反芻しながら、佐助は寝乱れた橙色の髪をかき回した。 ごくありふれた、どうということもない日常の夢だった癖に、余韻が五感から消えてくれない。 夜通しクーラーをかけていたのに、痛いほどの太陽の熱が、肌に残っているような気がした。
「あー、スイカ、うまそうだったな」
 同じように、スイカの色も、甘くて青臭いにおいも、鮮烈に残っている。スイカなどもう何年も食べていないというのにだ。 一人暮しをしていると、西瓜を食べる機会はなかなかない。一球は多すぎるし、あらかじめカットされたものは、なんとなくまずそうで買う気にならない。
「あれ? でも、そもそも俺、あまいもんそんなに好きじゃないよな。夢の中でも食ってなかったし……あぁ」
 
(あの人があんまりうまそうに食べるから、食べたくなったんだわ)

「箸上げタレントとか向いてんじゃねえの」
 顔もいい、体もいい、運動神経も抜群だ。性格も……とにかくキャラ立ちは抜群だ。
佐助は、液晶画面の中でスイカをほおばる「彼」を思い浮かべた。これはまっことおいしゅうございますなああああ!!みずみずしく、それでいて…
「無理」
 なんだかとてもつらい気持ちになって、佐助は空想を頭から追い出した。

 惰性でテレビをつけると、スーツのアナウンサーが遠くの国の戦争を伝えていた。 戦線は拡大しており、両軍の被害は今後更に増加するものと考えられます。完璧な標準語が、淡々と死者の数を読み上げて行く。

 液晶の向こうの銃声を聞き流しながら、佐助は改めて「彼」の姿を思い浮かべた。
「なんか想像しづらいな」
 ここに生まれて、ここで生きて、ここで生活している「彼」は、どうしても想像できなかった。


  (当たり前だ、あの人はいないんだから)

 ワンルームのマンションも、窓の外の景色も、画質のいい液晶の中の映像も、 夢の中よりもくすんで見えた。モノクロの世界、などと大げさに恰好を付ける気はないが、つまらない単調な、色あせたものに見えた。


 どうしても、鮮やかな色が足りない気がして、ならなかったのだ。




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